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亡羊と遊ぶメランコリー――小説家志望・束木志埜のブログ

小説家を目指すわたくしのブログ。色々なことに関心を持ち、できる限りのことをしたく思います。小説・アニメ・漫画等々の感想や日々のこと、創作についても書いていきます。よろしくお願いします!

がむしゃらな努力は努力じゃないよ、というお話。あるいは努力の方法について

創作
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はじめに

 諸君、ダメ人間というのを見たことがありますか?

 わたくしはあります。毎日、鏡の中に佇んでいる彼こそ、ダメ人間でした。要するに、わたくし自身がダメ人間なのです。
 ダメ人間の定義が解らない、という方向けに説明いたしますと、生きることが壊滅的にド下手な人間である――ということですね。

 何度も言いますが、わたしくの夢は小説家になることです。より正確には、小説家以外にならないこと……これがわたくしの夢です。小説家になれないならば、このような人生はすべて不要だとさえ思っていました。
 この覚悟――逃げかもしれません――こそが、わたくしがダメ人間たる所以なのかもしれません。

 

 大学生なのに、大学へ行かない人

 わたくしが最もダメさと愚かさを露呈したのは、大学へあまり行かなくなった時でした。その時のわたくしは、大学のつまらない講義よりも、己が駄作を一刻も早く完成させることを優先しておりました。まだまだ応募予定の賞は、受付すら開始していないというのに、毎日が締め切り日のような心持ちで、キーボードを叩いておりました。
 結果として、大学三年生の前期までは、一つも単位を落としたことがなかったわたくしも、後期は随分と悲惨な目に遭いました。ゼミ以外の単位をすべて落とす勢いです。


 わたくしは夢のためと言いながら、あらゆる日常を犠牲にして、計六つの駄作を生み出しました。その駄作たちは、しかし、あまり良い成績を生み出してはくれませんでした。とはいえ、幾つかは一次審査を通過できたので、後悔はできずにいます。本当は後悔したいのですが……
 
 最近にしてようやく気が付いたのが、「わたくしは夢を理由に、現実から逃げていた」ということです。


 尊い夢を言い訳に使ってしまったのです。
 醜い。なんと醜いのでしょうか。醜いのは容姿だけで良かったはずなのに!

 

 

 

 がむしゃらな努力は努力じゃない件について

 夢を言い訳に使わない方は本当に美しい。夢に邁進する姿は、どのような芸術作品にも匹敵することでしょう。


 しかし、その努力は本当に適切なのでしょうか?


 努力は裏切らない――と青春漫画では当然のように言われております。けれど、いざ現実へと目を向けてみれば、努力に裏切られたと感じる方はかなり多いご様子。全員の夢が叶っているのならば、今頃、世界中は野球選手とサッカー選手とパイロットばかりになっていることでしょうね。


 そうなっていないのは、つまり、努力に裏切られた方が多いという、統計的事実なのです。


 しかし、こう言っては問題かもしれませんが、努力に裏切られたと考えている方……その方たちの努力は本当に正しかったのでしょうか。

 

 例えば、今わたくしが鏡を見ますと、そこにいらっしゃる束木(たばき)志埜(しの)という凡人がにっこり微笑んでおられます。彼は、小説家になることを夢見て、その夢について真摯な態度を取っていました。
 彼自身は、自分のことを「努力の人である」と捉えていたようです。日々、小説を馬鹿のように書き綴っていました。一日平均、一万文字……それが彼のスコアでした。そして、それが彼の努力でした。一日一万文字も小説を書いて、大変な努力人だなぁと、自身を誇ってすらいました。


 ……これ、間違っていますよね?


 小説家になるための努力は、たくさん書くことではありません。いいえ、もちろん、たくさん書くことは絶対に必要なことではありますが、本質を捉えてはいません。

 

 小説家になるための努力というのは、おそらく、「自身の欠点を見つけ改善」し、「自らの長所を見つけ伸ばしていく」これに尽きるのではないでしょうか。


 解り辛いですか?
 では、例え話を交えましょう。


 わたくしは幼い頃、卓球でよく遊ぶお子様でした。卓球をやったことはありますか? なければ、野球とかサッカーとか、何でもよろしいのです。
 ともかく、卓球の練習をするとき、欠かせないのが「素振り」です。わたくしはあれを何千、何万回とやりましたが、一向に上手くはなりませんでした。誰よりもたくさん素振りをしたのに、ずっと下手なままでした。


 これはどうして?


 理由は簡単なことで、考えずに素振りをしていたからです。
 本来、素振りというのは、自身に見合ったフォームを探す行為でもあります。
 今の打ち方は良かった。では、どうして良かったのか。普段よりも一歩深く踏み込んだから? 試す。違う。では、重心がいつもより前に出ていたから? 試す。
 というように、一振り一振り毎に、意味を持たしてやらなくてはならなかったのです。それに気付けなかったわたくしは、卓球で遊ぶことを断念しました。
 
 他の例をあげてみます。
 かつて、わたくしの友人の中に、勉強時間を誇る方がいらっしゃいました。彼はなんと、一日平均六時間――当然、学校での授業時間は除きます――という剛の者なのでした。
 けれど、そのような彼の成績は、わたくしよりも少しばかり低かったのです。これは彼の頭が致命的に悪かったという部分も大いにあるのでしょうが、何よりもダメなのは、勉強時間「だけ」が長かったからです。


 ついぞ尋ねることはしませんでしたが、予想するに、彼の勉強方法というのは、「問題の解き方ではなく、問題自体を覚える」ような勉強方法だったのでしょう。国語のテストに解き方のコツがあるように、数学のテストを突破する際には公式を覚えなくてはならないように、テストというモノには答え方があります。しかし、彼は問題自体を必死に覚えていたのでしょう。
 彼は「1+1が2」であることを覚えただけで「1+2」の解き方が解らなかったのです。

 

 努力に於いて、実のところ、時間というのはそこまで信頼のおけるものではありません。


 わたくしたちが言う天才というのは、時間を効率よく使う人たちのことを指すのではないでしょうか。ただ無意味に時間を浪費するのではなく、何のために時間を使っているのかをよく考えながら動く必要があるでしょう。

 

 運動でしたら、一挙手一投足の最適を探っていく。卓球のラケット一つ振るためにも、スイングスピード、重心、腹筋の動き、背筋の動き、手の位置、ラケットの持ち方、ボールの位置、身体の位置、足の踏ん張り具合、打った後の体勢、ラバーの調子、云々……と無数の注意点があります。これらを意識できるかどうか、改善できるかどうかが努力です。自身の欠点を知り改善、自身の長所を知り伸ばす、ということです。


 ただ無意味に素振りをすることは、決して努力であるとは言えません。強い言葉を使わせていただければ、それはただの時間の無駄です

 

 おわりに

 がむしゃらな努力に意味はありません。きちんと思考した結果、努力は叶うのです。
 残念ながら、きちんと思考した結果、努力が報われない方もいらっしゃいます。そのような方には、根本的に何かが足りなかったのでしょう。ですから、努力が報われるかどうかは、やはり解りません。報われても、それを超えていく人たちがたくさんいることだって、よくある悲劇ですからね。

 ですから、皆さんも、努力をする際には、努力の方向性を強く意識してみてください。


 小説家になりたい、と言って、セパタクローを始めたりしないようにしましょう。


 がむしゃらな努力ではなく、適切な努力が出来ると良いですね。……その適切な努力を見つけることがまた至難なのですが。

 

 まあ、少なくとも、わたくしのように夢を言い訳に使って、日常生活をおろそかにしてしまうことは、決して努力ではありませんよ、というお話でした。

 

 終わりのコーナー

 語彙力向上のため、一日一つ、言葉を覚えていこうかと。てきとーに辞書をひきまして、その中から良い感じのモノを載せますね。もちろん、意味付きで!

 ただし、わたくしの定義する語彙力というのは、知っているだけでは駄目なのです。咄嗟に作中で使えなくては意味が無いのです。ですから、比較的簡単な言葉も、敢えて意味を調べて載せることがあるかと思われますね。
 
 今日の語彙は『煩瑣』はんさ、と読みます。
 こまごまとしてわずらわしいこと。また、そのさま。「煩瑣な手続き」

 引用は『goo国語辞書』http://dictionary.goo.ne.jp/jn/181166/meaning/m0u/より

 

 では、諸君、ごきげんよう。